この日、木野は婦長の斎藤静江に誘われ、病院内の食堂で昼食を共にしていた。
「木野さん、この前はチケットありがとうございました」
「とんでもありません。楽しんでいただけましたか?」
「お陰様で最高だったわあ」
「それは良かった」
「ところで、ちょっと木野さんの耳に入れておきたかったことがあるんですけど、1501号室の北大路さん、いよいよ危ないのよ」
「えっ!1501号室といえば、ここで一番高い個室じゃないですか」
「そうよ。だから木野さん、がんばってね。私もお宅のこと、それとなく話しておいたから」
「ありがとうございます!なんとしてもうちで扱いたいですね」
「実は担当医の栗林先生が来週からハワイ旅行なのよ。
だから今夜あたりになりそうなの。私もずっとお世話をしてきたから、今日は泊まろうと思ってるのよ」
「えー、またハワイですか?それにしても担当医が旅行に行く度にこれじゃ、患者さんの家族もかないませんねえ」
「もちろん、家族はそんな事情は知らないけど、もしばれたら大変よね」
病院によっては担当医の事情で、もう先が見えている患者の臨終を操作することは珍しいことではない。
例えば、お盆や正月など医師が長い休みをとる前は、当たり前のように行っているところもある。
「まあ、我々にとってはありがたいことですけどね。わかりました、私も待機しています」
「そう、それじゃそのときはすぐ連絡するから、お願いね」
「はい、いつもありがとうございます」
二人は無意識に小声で会話していた。
夕方になると泊まり勤務の清水と舟木が出勤してきた。
木野は二人に婦長からの情報を話した。そして、夜中の1時過ぎ、霊安室の電話が鳴った。
「はい、霊安室です。ああ、婦長お疲れ様です、木野です」
「はい、はい、そうですか、お待ちしておりました!おっと、失礼いたしました」
待ちに待った1501号室の出動要請に、木野は思わず口にしてはならないことを口走ってしまい、舌を出した。
電話を切り、クリーニングから上がったばかりの白衣を取り出した木野は舟木を呼んだ。
「舟木8、いくぞ。清水、悪いけど舟木にも1501号室を見せてやりたいから留守番しててくれ」
「はい、いいですよ。舟木、ヘマするなよ」
「任せておいてください。木野さんが一緒ですからね」
『コンコン』
「失礼いたします。この度はご愁傷様でございます。
故人様を霊安室にお連れいたします」
木野はいつもより丁寧な口調で深々と一礼した。
ベッドには亡くなったばかりの北大路房枝(享年64)が寝ていた。
傍らには夫の北大路隆雄、長男、次男、長女の各夫婦、それに孫たちと大勢が房枝の最期を看取っていた。
そして、婦長の斎藤も看護婦二人を従え、この部屋で木野たちが迎えに来るのを待っていた。
木野と舟木はみんなが見守る中、房枝の遺体をこの上なく慎重に扱い、霊安室へと運んだ。
霊安室で遺族たちは順番に線香をあげ始めたが、人数が多いため時間がかかるので、木野たちは一度事務所に下がった。
「これは上客に間違いない。家族たちの身なりを見れば一目瞭然だ」
木野が小声で事務所にいた清水に耳打ちをする。
「へえ、そうですか」
思わず清水が事務所から焼香をしているところをのぞき込む。
「いやあ、ほんとうですね。これは絶対頂きましょう」
そのうち遺族たちの焼香がおわった。そして一番後ろで見守っていた斎藤が
「私もよろしいでしょうか?」
と、遺族に了解を得てから線香をあげた。
「さあ、あなたたちも」斎藤は一緒に来ていた他の看護婦たちにも、線香をあげるよう促した。
ここでは病室のときよりもさらに増え、6人もの看護婦が並んでいた。
全員の焼香が終わったことを事務所の出入り口付近で見ていた木野は、故人の夫・隆雄に近づいた。
隆雄は年は70歳くらいだが、品のある風貌で、夜中だというのにスーツをびしっと着用していた。
「恐れ入ります、依頼をされる葬儀社はすでにお決まりでしょうか?
まだ決めていらっしゃらないのでしたら、私どもにお手伝いをさせていただけませんでしょうか?
ご自宅まで奥様をお連れさせていただきますので」
木野の言葉に合わせ、清水と舟木が隣に並んで深く一礼をする。
木野は事前に斎藤から家族構成、喪主を務めるであろう夫のことなどを聞いて知っていた。
「ええ、まだ何も決めてはいなかったのですが、私が会長を務めている社交クラブの中に葬儀社の社長がいますので、そこに頼もうかとも考えていたのです」
”まずい!”木野は思った。
「私どもはこの学徳医科大病院の厚い信頼の元、霊安室を任されている葬儀社です。
こちらの病院でお亡くなりになられた方のご葬儀につきましては、ご納得、そしてなによりご満足いただけるよう、誠心誠意尽くしております。
決して損はさせません。是非お役に立たせてください」
木野が食い下がると、清水と舟木がさらに深く一礼をする。
「さあ、どうしたもんですかねえ……」隆雄が困った顔をして腕組みをする。
「北大路さん」近くで様子を見ていた斎藤が口を挟んできた。
「彼らは誠心葬祭と言いまして、社名のとおり真心のこもったサービスを提供してくれると、評判の葬儀社です。
実際今までご紹介いたしましたご家族からは、いつも感謝の言葉を頂いております。
私も普段から彼らと接しておりますと、それがよくわかります。
もしもまだお話されたところがないのでしたら、誠心葬祭をどうか使ってやってくださいな」
本当は感謝の言葉など皆無であったが、これが強力な援護射撃になった。
「……そうですか、婦長さんがそこまで言うのであれば安心して任せられそうですな。
それではお願いすることにしましょう。みんな、いいな?」
隆雄は近くにいる長男や次男にも同意を求めた。
みんな小さく頷き、誰も反対はしなかった。
父・隆雄がそれでいいのであれば自分たちには異論はない、子供たちはそう考えていた。
”やったぞ!”木野、清水、そして舟木も心の中で叫んだ。
「しっかり務めさせていただきます」木野は心の高ぶりを抑え、静かな口調で言った。
「そうですね、しっかり北大路さんのサポートをしてあげて下さいね」
斎藤が木野に向かって言った。きっと斎藤の頭のなかはブランドもののバッグか宝石あたりが渦巻いていたことだろう。
遺族が葬式を一手に引き受けてもらう葬儀社を決定するにあたって、ほとんどの場合、こんな程度の話し合いで決まってしまう。
そして、一度決定すると、通夜、葬儀まで時間がないために、例え不満があっても葬儀社を替えることはまずない。
数百万円単位の買い物と同じなのに、依頼主である遺族にはそれができない。
つまり、今回はよほどのことがない限り、誠心葬祭の受注が確定されたも同じであった。
早速、木野は舟木に寝台車を準備させ、故人を自宅まで送っていくことになった。
自宅に着くと故人を布団に寝かせ、ドライアイスの処置、枕飾りをする。
そして用意が整ったところで木野が隆雄に声を掛けた。
「それではもう遅い時間ですし、皆さまもお疲れでしょうから、朝一番に私どもの営業の人間が改めてお伺いして、お打ち合わせをさせていただきます。
ご要望はその営業のものにお申し付けください」
「いや、できれば今すぐにでも打ち合わせしたいのですが」
「いえ、これから通夜、葬儀と続きます。お体に障ってはいけませんから、早めにお休みになって下さい。
時間はまだありますのでご安心を」
「はあ……わかりました」
隆雄は少しでも早くいろいろなことを決めたかったようだが、木野のもっともらしい説明に、しかたなく同意した。
しかし、本当は霊安室に詰めている木野たちにとってここまでが自分たちの仕事であり、この後の打ち合わせ、当日の施行は全て営業部にバトンタッチするシステムになっていたからに他ならない。
木野と舟木は病院でいつまた亡くなる患者が出るかわからないので、急いで戻らなければならないのである。
「それでは、朝いちばんに営業の者が参りますので、よろしくお願いいたします」
木野は隆雄に念を押し、自宅を後にした。
「木野さん、やりましたね」舟木が寝台車を運転しながら、助手席の木野に笑顔で言った。
「今回のはいい仕事になるぞ。旦那が亡くなるより奥さんが亡くなったときの方が盛大な葬儀になるからな。特に旦那が地位のある人だとな」
「そうなんですか?旦那さんが亡くなったときの方がお金をかけるんじゃないですかねえ」
「違うんだよ。旦那が社会的地位が高いと、やっぱり仕事の関係者がたくさん来るだろ。
しかもその旦那の目があるから、立場的に弱い人たちは顔を出さないわけにはいかないだろう。
だからその分、香典が多く集まるんだよ。こっちはそれを見込んで旦那をおだてたり、すかしたりして葬儀代をつり上げていくっていう寸法さ」
「なるほど、そりゃ地位の高い人はあまり恥ずかしい葬儀は出せませんものね」
「ところで舟木、今回の様に営業の人間が出向くまでに時間があく場合、注意することは何だ?」
「はい、死亡診断書を預かるってことですよね?」
「そうだ。万が一、心変わりでもされたらかなわねえからな」
「はい、以前に木野さんにしっかりおそわりました」
「そうだったか?まあ、言ってみれば……」
「人質みたいなもんよ、でしょ?」
「よくできました!」
「ハハハハハ……」
大きな仕事になりそうで、二人の会話も弾んでいた。