木野は朝からナースステーションに顔を出していた。
いつものご機嫌取りである。
「しかし、夜勤が続いても、よく飲みに行く元気があるよね」」
「逆ですよ。飲みにでもいって発散しないと、とてもやってられないからですよ」
木野は恵が入れてくれたコーヒーを飲みながら話し込んでいた。
「おはようございます」
すると見かけない看護婦が出勤してきた。
「あっ、美由紀さんおはよう。ちょうど良かったわ、紹介するわね。こちら木野さん」
「はじめまして、中森美由紀です」美由紀は微笑んで木野に自己紹介した。
「……」木野は美由紀の顔を見て呆然としている。
美由紀は女性にしては背が高く、スマートで、目がパッチリとしたハーフのような顔立ちをしている。
学徳医科大病院の看護婦の中でも群を抜いた美形である。
「美由紀さんは和正会病院に勤めていたんだけど、一昨日からうちで働いてもらっているんですよ。
まだ26歳だけど、私なんかよりもよっぽどしっかりしてるわ」
「……」
「木野さん、聞いてます?」
『ガタッガタッ』木野は我に返って立ち上がった。
「しっ、失礼しました。せっ、誠心葬祭の木野です。よろしくお願いします」
「木野さん、どうしたんですか?」恵が木野の言動を見て、笑いながら言った。
「美由紀さん、木野さんは霊安室をお願いしている誠心葬祭の部長さんで、うちの子たちはみんなよくしてもらっているのよ」
「そうなんですか……葬儀社の方ですか……」
さっきの自己紹介の時とは違い、美由紀の顔は明らかに曇り顔になっていた。
「それじゃ恵ちゃん、俺そろそろ行くわ」
「そうですか、いつもすみません」
木野はナースステーションを出ていった。
「参ったな」
事務所に戻る間、木野は中森美由紀のことを考えていた。
木野にはホテルに勤めているとき、交際をしている女性がいた。
彼女は大学を出て、銀行に勤めていた。
二人は将来、結婚も考えているほどの仲だったが、木野がシティホテルを辞め、葬儀社に転職することに、彼女はひどく反対をしていた。
結局、彼女の反対を押し切り転職をしたため、それが原因で別れてしまったのである。
木野は彼女がその後、お見合いで弁護士と結婚したことを風の便りで聞いていた。
木野もそれから何人かの女性と交際してきたが、あまり長続きはしなかった。
実は、美由紀はその元彼女によく似ていたのである。
最近では、あまり思い出さなくなっていたが、あまりにも突然の出来事だったので、動揺してしまったのだ。
しかし、木野の心の中では、過去のつらい思い出とともに、なぜかウキウキするような思いが湧き上がっていた。
「木野さん、遅いですよ」
木野が事務所に戻ると、待っていた兼子が焦った表情で言った。
「今日は朝から解剖があるって言ったじゃないですか」
「そうか、悪い悪い。清水はもう行ってるのか?」
「はい、俺も行きますね」
「おう、よろしく頼むな」
患者が亡くなると、病院は遺族に対して病理解剖の依頼をする。
目的は[医学の進歩のため]だそうだ。
誠心葬祭は霊安室を任せてもらう条件として、解剖の手伝いをすることになっていた。
法的に良いのか悪いのかはどうでもいいことで、それが大病院に入るための条件なら葬儀社は承諾せざるを得ない。
医師が遺族から提供を受けた遺体を切り刻み、必要な臓器などをやたらめったら取り出す。
それをホルマリン漬けにするのだが、これを誠心葬祭の人間がやらなければならない。
臓器の匂い、ホルマリンの鼻を突くような臭い、とにかく解剖は悪臭との戦いであった。
グロテスクな見た目だけでも耐えられない人間は多いが、目は慣れるものである。
葬儀に携わる人間にとって一番厄介なもの、それは悪臭である。
臭いだけは何度経験しても慣れることはない。
全ての解剖作業が終わると、医師はとっとと解剖室を出て行ってしまう。
後に残された亡骸は誠心葬祭の社員が後始末をするのである。
内臓が取り出されてへこんでしまった体に綿を詰め、体裁を整えたら縫合する。
そして縫合されたところにテーピングをし、身体全体を洗浄して浴衣を着せる。
最後にゴミとして残った肉片や血液をきれいに掃除し、また次の解剖がいつでもできるようにしておくのである。
「お疲れ様です」兼子と清水が遺体を連れ、霊安室に戻ってきた。
「おう、ご苦労さん」木野が二人を労う。
「この後どうなんだ?」
「なんか決めたとこがあるらしくて、もうすぐ遺族と一緒に葬儀社が来るらしいんです」
「そうなのか、残念だな」
「本当ですよ。こんな大変な思いをして、一銭にもならないんじゃ、馬鹿らしくなりますよ」
「まあ、遺族のためじゃなく、病院のためにやってることだからな。
みんなの努力は決して無駄にはなってないよ」
「はい、そうですよね……」
病院に詰めている葬儀社は、解剖の手伝いをしようが、霊安室で焼香の用意をしようが、それだけでは一切収入にならない。
あくまでも葬儀を請け負う、棺を売る、自宅まで搬送するなどの行為が必要なのだ。
寄付や接待という先行投資をしていることもあり、病院の葬儀社に頼むとぼったくられることが多いというのもわかる気がする。
確かに病院の中で使用人のように酷使されている様を目の当たりにすれば、同情の余地もあり、少しくらいは仕方がないかとも思えてくる。
しかし、遺族にとってはそんなことは知ったことではない。
やはり何事も自分の意志で決めたほうが間違いないのは明白なのである。
>>第7話 本当の天使、尻軽天使へ続く