第7話 本当の天使、尻軽天使

 

今日の泊まり勤務は木野と田中だった。日勤が帰って間もなく、ナースステーションから連絡があり、二人は病室に遺体を引き取りに行くところだった。
病室は303号室、ストレッチャーを押し、3階でエレベーターを降りた。

”あっ!”木野は病室の前で立っている美由紀を見つけた。
「お、お疲れ様です」
「……」木野の挨拶に美由紀は下を向いて、軽くお辞儀をするだけだった。
「もうよろしいですか?」田中が聞くと、美由紀は「はい」と答え、病室をノックした。

「小川さん、ご主人を霊安室にお連れしますね」
「よろしくお願いします」
美由紀がドアを開け、声を掛けると、亡くなった小川次郎(享年66)の妻・久子(62歳)が返事をした。
木野と田中がストレッチャーを病室に入れ、遺体をベッドから移そうとすると、美由紀が手伝ってきた。

「中森さん、我々だけで大丈夫ですから」
木野は断ったが、「いえ、私の仕事ですから」美由紀はそう言ってきかない。

木野は仕方なく美由紀にも足を持ってもらい、3人で遺体を持ち上げた。
通常、看護婦の手を煩わせることなく、葬儀社の人間だけで遺体を霊安室に運ぶのが常識で、看護婦は見ているだけなのだ。
それこそ、『手伝いましょうか』などという言葉は、間違っても彼女たちの口からは出てこない。
木野たちもそれで彼女たちのご機嫌取りが出来ればいいと思っている。

面を食らった木野と田中だったが、いつもどおり霊安室に遺体を運び、故人の妻・久子に線香をあげさせた。
病室からずっと付き添ってきた美由紀も線香を上げ、そして久子の肩を抱いて、
「長い間、お疲れ様でしたね。ご主人は闘病生活は辛かったでしょうけど、奥様がいつもそばにいてくれて幸せだったと思いますよ」そう言って泣いていた。

久子はやさしい言葉に思わず美由紀を抱きしめた。久子の小さな肩が小刻みに動いていた。
その様子を傍らで見ていた木野はジーンときてしまった。
ここ数年、毎日のように見ている光景がなぜか今日は新鮮に感じた。

そして、葬儀を請け負うことに成功した木野と田中は、故人を自宅まで送り届けることになった。
今回は遺族が久子1人だったこともあり、久子も寝台車に同乗させることにした。

「闘病生活は長かったのですか?」
木野が故人の寝ている単価の隣に座ってうつむいている久子に話し掛けた。


「はい、もう2年になりますか」
「そうですか。奥様も大変でしたね」
「ええ、でも私より、癌と闘って入退院を繰り返していた主人はもっと辛かったことでしょう。
それを思えば私の苦労など……」
亡くなった小川二郎は胃癌であった。

「でも、さっき霊安室まで来てくれた看護婦の中森さんが本当に良くしてくれまして、主人も意識がなくなるまでは、中森さんが顔を出してくれるのを楽しみにしていました。
最後にとても親切な看護婦さんにお世話していただいて、主人も本当に救われたと思います」
美由紀は学徳医科大病院に来てまだ間もないが、もう余命わずかな二郎に対し、献身的に尽くす久子に共感してとても親切にしていた。

「そうだったんですか」木野は美由紀のやさしさに改めて好感を持った。

病院を出て30分ほどで寝台車は練馬の自宅の到着した。すると黒っぽいスーツを着た、中年の男が家の前で待っていた。
「誰かしら」久子は知らない人だと言う。

”もしかして”木野に不安が走った。

久子が先に寝台車を降り、男と話を始めた。
そして、久子はその男を連れ、家の中へと入っていってしまった。
仕方なく木野と田中は寝台車の中で待っていると、久子が少し青い顔をして家から出てきた。

「どうなさいました?」木野が寝台車から降りて久子に聞いた。
「申し訳ございません。実は主人の兄が先に言えに来て待っていてくれたのですが、どうやら勝手に葬儀屋さんを頼んでしまったようなんです」

”やっぱり”木野の直感どおりだった。
親戚が勇み足を踏むことは往々にしてあることだった。


「それでどうなさいますか?」
「義兄に事情を話したのですが、自分の大切な取引先なので、今さら断れないと申しております。
本当に申し訳ありませんが、今回はなかったことにしていただけませんでしょうか?」
久子は頭を膝に押し当てるようにして謝る。今の久子にはそれしかできなかった。

「木野さん、どうします?」隣で聞いていた田中が言う。
「……わかりました、奥さん。そういうことでしたら致し方ありません。
今回は搬送費だけ頂戴して、私どもは失礼します」
「本当に申し訳ありません」

何度も謝る久子を木野がなだめ、遺体を自宅の中に運んだ。
そして、木野が請求書を撮りに寝台車に戻っていると、先方の葬儀社の男が家を出てきた。
「悪いねえ、こっちは遺族と長い付き合いだからさ、おたくらみたいな霊安室で調子のいいこと言って、

うまい汁を吸おうとしている輩の出る幕じゃないよ。」

すでに頭が薄くなり、いかにも不潔そうなその男が木野に近寄り、嫌味十分に言った。
「あのさ、そんなことはどうでもいいから、しっかりあの奥さんのお手伝いしてあげなよ。
おたくもどちらかというと胡散臭いほうだからね」
「何を!」

「あのう……」
木野の反撃に男が怒りをあらわにしたところに久子がやってきた。男は矛を収め、自分の車の方へ姿を消してしまった。


「搬送費は今、お支払いいたします」
「そうですか、恐れ入ります」
久子が請求書に書かれた金額を木野に支払い、木野はその場で領収証を切って久子に渡した。

「それからこれ」久子が別に小さい包みを差し出した。心付けであった。
「いえ、奥さん、それは結構です。私どもはそんな大したことはしておりませんので」
「とんでもない、本当に良くしていただいたのに申し訳ないことをしてしまって。
気持ちばかりですが、どうか受け取って下さい」

そう言って、久子は木野の手の中に包みを無理やり押し込んだ。
「ありがとうございます。奥さん、お兄様のお知り合いの葬儀社さんなら安心かと思いますが、もしも何かお困りなことがございましたら、いつでもおっしゃって下さいね」
木野は包みを内ポケットにしまいながら久子に言った。


「ありがとうございます。中森さんにもどうぞよろしくお伝えください」
「はい、わかりました」木野と田中は病院へと帰っていった。

霊安室の事務所に戻ると、田中が茶化すように木野に話し掛ける。
「木野さん、珍しくあっさり引き下がりましたね」
「……」
「どうしたんですか?木野さんらしくない」
「……田中、今度来た中森美由紀って看護婦どう思う?」
「ああ、さっきここで一緒に泣いていた看護婦ですね。
この病院にはいないタイプの良い娘ですよね」

「実はさあ、おれの前の彼女によく似てるんだよ」
「へえ、そうなんですか?」
「なんかさあ、彼女が一生懸命してあげていた患者さんだったと思うと、いつものようにできなくなっちゃってさあ……」

木野はこの霊安室で、長いこと苦楽を共にしてきた田中には、本当のことが言いやすかった。
田中も兄貴分の木野には、なんでも相談してきた。二人はお互いを一番分かり合える存在だった。

「そうだったんですか。それでいつもの木野流強引営業も鞘に納まったままになってしまった、ということですね」
「まあ、そういうことかな。個人的な感情で左右されるなんて、俺もまだまだだよな」
「でも、人の生き様、死に様にかかわる仕事ですから、そういう人間的な感情は大切なんじゃないですかね」
「そうなのかねえ、最近の俺には遺体の顔が札束にしか見えなかったからなあ」
「しかし、木野さんの気持ちをそんなに揺さぶるなんて、あの中森美由紀って娘もたいしたもんですね」

『トゥルルル……』二人の会話の途中で電話が鳴った。
「はい、学徳医科大病院霊安室です」電話は外線だった。
「はい、田中は私ですが。ああ、舞ちゃん?久し振り、元気だった?うん、うん、ああそう、ちょっと待ってて」田中はいったん、電話を保留にした。

「木野さん、前に話した例の神楽救急病院の看護婦からなんですけど、亡くなった方がいて、今から迎えに来られないかって言うんですけど、どうですかね?」
「すごいじゃないか、こっちは俺一人でも大丈夫だけど、そっちは一人で平気か?」
「平気ですよ、それじゃちょっと行ってきますね」

田中は受話器を取った。
「ごめんね、お待たせ。それじゃ40分くらいで行けるから。直接霊安室でいいね?オッケー、じゃ後で」
『ガチャッ』

「田中、やるねえ、さすがだよ」
出動の準備をしている田中に、木野が賛辞を贈った。

「たまたまですけどね。どの程度の仕事になるかわかりませんけど、がんばってきますよ」
「おう、よろしくな」

田中は寝台車で神楽救急病院へ向かった。神楽救急病院は小規模の病院で、一応霊安室はあるが、葬儀社を常駐させてはいなかった。
つまり遺族は自分で葬儀社を探し、病院まで迎えに来てもらうことになる。それを知った田中は神楽救急病院の看護婦を口説き落とし、連絡をくれるように頼んでいた。


>>第8話 葬儀屋なんて大嫌いへ続く

 



 

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